熟男独身ひとり暮らしDiary

熟男と呼ばれる歳になり今も独身ひとり暮し男の日々の日記です。

僕の履歴書

クリスマスの日にひとり過去を振り返る。(僕の履歴書 この10年)

今日はクリスマス。

仕事も休みなんに朝6時前に起床したさとしです・・・。

ぅぅぅ・・・。

朝ごはんを食べてソファーに座り・・・、

コーヒーを飲みながら考えてみた・・・。

このブログを読んでくださっている読者皆さんはおわかりだと思うが、

僕は既に熟男だけど一度も結婚したことがない。

その中で7年付き合った女性がおったけどね・・・。

けれど別れてしまった・・・。

それから今日でちょうど12年!

Σヾ( ̄0 ̄;ノ

な、な、長すぎる・・・。

でも別れてから2年少しくらいは妬けになり2人の女性とは関係もってすぐ別れたり・・・。

だから本当の彼女としてのいない歴は10年になるんだ。

今日までの10年間・・・。

こんな僕にも、

1度だけチャンスがあったと振り返る。

これはこのブログではじめて書くと思う・・・。


それは7年付き合った彼女と別れてから2年後、僕は仕事の転勤で福井県敦賀市に住んだ時、

僕の好み100%ストライクの女性とめぐり合う。

僕は基本どM!(笑)

さとしは卑怯だと昔から友達には言われるが、

いつも僕は女性に好きや!とか付き合ってほしい!とかは一切言わないタイプ。

でもその女性には違ったんだ。完全にストライク!ビビッ!と来たっ!

仕事で毎日顔を合わせるので毎日「可愛いね~。」とか

「付き合って~!」などとセクハラまがいのことを堂々と僕はその子に言っていた。(笑)

しかしその子には当然彼氏がいたわけで・・・。

それでもかなりのアプローチはしたと思う。

その子もそれが充分わかってくれたのかたまに食事は一緒に行ってくれた。

内心彼氏から僕に振り向いてくれるかなぁ~

って思ったけど数年後、最後は当然僕は振られる・・・。(笑)

理由は彼氏がおるしもうひとつ歳の差ということ・・・。ぅぅぅ。

何てったってその子は大事に育てられた箱入り娘だったからなぁ・・・。


振られてからも僕とその子とはメールや電話やたまにだけど食事もし話をした。

悩みごとを聞いたり・・・。

仲の良い友達として付き合うことになる。

そしてその子は数年後結婚をする・・・。

その後も連絡はたまにだけど取っていた。

そして、彼女は結婚して1年後突然離婚してしまう。

その時僕は福井県敦賀市にいれば何とかなったんだろうけど、

人生とは上手くいかない。

その時、僕は既に大阪市に住んでいた。

まして僕は大阪市に住んだばかりで仕事もめちゃくちゃ忙しい毎日を過ごしていたんだ。

大阪市と敦賀市・・・。

電車で行けば1時間30分くらいの距離。

その子も少しだけど僕にアプローチをしてくれていたんだと今思えばそう思う。

「敦賀にいつ来るんですか~?」

「会って話がしたいんですけど・・・。」

「敦賀に来たら泊まるんですか~?」

とか・・・。

でも僕はあやふやな返事をして結局はその子と会えなかった。

男は忙しい理由にすぐ仕事だからと言うことが多い。

でもその頃は頭の中は本当に仕事しかなかった・・・。

ていうか、その子は離婚したばかりだから今会わなくても大丈夫かな・・・?

という甘い気持ちがどこか僕にあったんだと思う。

そんなこんなで1年が過ぎた頃・・・、

やっと僕の仕事が落ち着き・・・、

さて敦賀に行ってその子とゆっくり会おう!

と連絡を久しぶりにしたら、


「すいません。彼氏できたんですぅ~」


(゚∇゚ ;)エッ!?


はい!敦賀行き終~~了~~~!


そしてその子は今年6月に2回目の結婚をしたんだ。

今度はとても良い旦那様みたいで絶対幸せになると思う。

結婚してからもたまに今もその子とはLINEをしている。

付き合えないが何故か10年間連絡を取っている不思議な関係・・・。(笑)


もし・・・、


その子が離婚をして辛い状態の時に…、

僕が仕事を空けてすぐ大阪から敦賀市に行ってその子と会っていたら・・・、

もっとその子と会ってデートしていれば・・・、

もしかしたら・・・、

その子と一緒になれたのかもしれない・・・かな ・・・・?

大阪に住んでいなければよかったぁ!

ぅぅぅ・・・。

僕は・・・、

僕は・・・、


アホな男やっ!


。゜゜(´□`。)°゜。


神様のイタズラなのかなぁ・・・。


この10年を振り返ると・・・、

仕事では今は落ち着いて満足しているんだけれど・・・、

恋愛に関しては・・・、

未だ全く進展も出逢いもない。

あ"~~~っ!

人生って上手くいかないもんだなぁ~。


今日はクリスマスなんだな・・・。



時間(過去)って戻ってくれないかなぁ~。


おっ?コーヒーもう1杯飲も・・・。


おわり。


(德永英明 - レイニーブルー)



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僕の履歴書。(海外ボランティア)

人間は生まれてくる時に、国や場所、親を選んで生まれては来られない。

僕はこの平和な日本に生まれてきて幸せだと思う。

僕が生まれ住んでいる日本以外にこの地球は色んな人種、国が存在する。

僕が海外ボランティア活動をしてきて約17年。

僕たちの活動というのは貧困に苦しむ子どもたちを少しでも助けたいという気持ちが一番大きい。

しかし、元々文明が入ってこない村や部族の人に対してはそれはそれで習慣が決まっているので僕たちは手をつけないでそっとしておく。

そのほうがその人たちは幸せだから。そして当たり前の様に生活しているから。

僕たちが活動する時というのは、天災で被災した人たちや以前は普通に幸せに暮らしてきた国の人たちがある事情で内戦や戦争になり一瞬にして家族を亡くしたり家を無くしたりした人たちを助けることなんだ。

国によっては色々な事情もあるし宗教も色々だ。

でも1日3食、食べていた生活から急に天災や内戦が起こり1日1食も食べれなくなった時・・・、

毎日寝ていた家が天災や内戦で壊され家が無くなったしまった時・・・。

今幸せに暮らしている人間ならそんな人たちを人種関係なく助け合うのが当然だと思う。

正直書くけど、僕がはじめて海外ボランティア活動をした時はそんな意味もわからなくて・・・、

ただ、「俺はしてやってる!助けてやってるんだぜ!」

みたいな上から目線で活動を始めたんだ。

それが3回目にアフリカのある内戦の国にボランティアに行った時あるものを見て僕の考えが180度変わった。

その出来事を書こうと思う。

ニューヨーク本部からの通達である村に救援物資を配りに行った時のことだった。

僕はパン配給係だった。

1人には小のパン1個。

2人~3人には大のパン1個。

4人~6人には大のパン1個と中のパン1個

これを配給することがキツく決められていた。

情に流されてしまい誰かにパンを多く渡してしまったらそれが逆に喧嘩や揉め事の原因になるからだ。

僕はちゃんと守ってみんなに配っていった。

無事配り終えて大きな木の下で休憩してると3人家族の姿を目にしたんだ。

それは、痩せたお母さんと子ども2人。(6歳と8歳くらいの子ども)

3人だから大きいパン1個配った家族だった。

推測だけどお父さんは内戦で亡くなったんだろうと思った。

僕はジーッとその家族を見ていた。

すると痩せたお母さんがそのパンを2つに分け子ども2人に笑顔で渡したんだ。

僕は、え~っ!ってなった。

お母さんは食べないのか?と・・・。

2人の子どもは少しずつ大事にパンを頬張りだした・・・。

すると・・・、2人の子どもは何も話もしていないのに一緒にパンをちぎってお母さんに差し出した。

お母さんは要らない、要らない、と首を振ったが子どもたちはお母さんの口に無理やりパンを入れた。

お母さんは嬉しそうに子どもたちを見ながらパンを頬張った。

それを見ていた僕は何故か亡き母のことを思い出していた。

お母さんって良いな・・・。

僕が見ていることをその子どもたちが気がついた。

僕に向かって手を上げて、たぶんありがとう!って言ってくれたんだと思う。

痩せたお母さんも僕を見つめて笑顔だった。

その子どもたちの笑顔が僕の目に焼き付いた。

そしてまた子どもたちの笑顔を見たいし笑顔にしてあげたい!って自然と思っていた。

その出来事があって僕は被災者と同じ目線でボランティア活動をするようになった。

何回も書くけど子供たちの笑顔が見たいから・・・。

ただそれだけ?だと思う人もいるかもしれないけど本当にそれだけなんだ・・・。

話は逸れるが、天災とは別に内戦や紛争、戦争の国にボランティアに行くことは自分自身も危険が及ぶ。

自分も命の危険がすぐそばにある。

それがわかってても覚悟して行っていたんだ。

また書くのか?と思うだろうが子供たちを笑顔にしてあげようという気持ちが1番頭にあったから覚悟も出来ていたんだと思う。

「自己責任」という言葉が日本中で広がったことも何回もあるけどそれはそれで僕は正論だと思って反論などできない・・・。

そして時は流れ僕は年齢も歳を取り今は若い後輩達に海外に行ってもらって活動報告を受ける側になった。

理事という肩書きがついたけどそんな肩書きよりも本当は率先して現地へ行きたい気持ちなんだけどな。

この前日本で起きた悲惨な「東日本大震災」のボランティアを最後に僕の現地の活動は終わった。

これからは若い後輩を育てていく側になったけど僕がもっているボランティア精神は今も変わらない。

このブログでは、僕という人間はどういうふうに読者は思っているんだろう?

たぶん、どMでスケベでエロいおっさん!って思っているのかな?(笑)

それはそれでホンマに当たっていると思う。(笑)

偽善者にも見えるかもしれない。

それはそれで反論などしないよ。

でも・・・、

人間の愛、笑顔に対しては・・・、

僕は、

誰よりも

今は・・・、

心からわかっていると思っている。

おわり。

***************

この「僕の履歴書」に関しましてはコメント欄をお休みさせていただきます。

ご了承下さい。

**************

僕の履歴書。(両親)

前回は僕の元彼女のことを書いたが今回は唯一の僕の両親のことを書くことにしょう。

何故書くのか・・・。

それは僕自身の為。これからも両親は僕の心の中にいつもいるということを再確認する為・・・。

かなり長くなるので簡単に書こうと思う。

僕の家族は4人家族だった。

おやじは今は誰もが知っている大手運送会社勤務(夜勤専属)。当時はまだ有限会社で小さい会社だった。

母は専業主婦。

僕は母が40歳の時産んでくれた。高齢出産。

周りは歳も歳だしおろす様に言われたみたいだけど母は僕を産む決断をしてくれた。

姉とはかなり歳の差がある。

僕が小学生の時姉は結婚して子供をすぐ産んだので僕は小学生ながら「おじさん」になった。(笑)

母は小学3年生の時から体調が悪く病院に通院したり1、2ヶ月入院したりとの繰り返し。

唯一母が退院して家にいる時が僕は一番嬉しかった。甘えられた。

母も僕を大事にしてくれた。目に入れても痛くないくらい可愛いと言ってくれて大事に育ててくれた。

僕が中学生の時、母は大きい手術をする。家族みんなで協力をした。

母の入院が長いので姉夫婦は実家の近くに引越しをしてくれて僕とおやじのご飯の世話をしてくれた。

もちろん、僕も炊事は手伝った。そのせいで僕は料理を覚えて今も作れる。

高校1年の時、母は2回目の大きい手術をする。

手術が終わり1ヶ月後、おやじが僕と姉に母の余命を告げる・・・。

正直辛かったというより何故おやじはまだ高校生の僕にまで母の余命を言ったのか・・・。

僕は母には気づかれないように毎日病院へ行って楽しい会話を話したりして母と過ごした。

高校2年の時、母は他界した。

僕は現実を受け止めたくはなかった。

母も僕のことはすごく気にして天国にいったと思う。まだ高校生だったから・・・。

もっと母と過ごしたかった。甘えたかった・・・。

おやじはというと僕が小さいころから全く会話がなかった。

昭和の人間そのもので口数も少なくおやじが機嫌が悪い時は家族みんな近寄らなかった。

おやじにどこか遊びに連れて行ってもらったことなど1度もない。

夜勤をしていたので母が入院している時は僕は家にひとりぼっちだったし鍵っ子も鍵っ子だった。

しかしそんなおやじでも母が他界して葬儀も終わって少し落ち着いたころ夜にふと起きるとトイレで父が泣いていたことが今も思い出す。

母がいなくなって1年経っても父は相変わらず仕事一筋。夜勤。

姉も変わらずおやじと僕のご飯を作りに通ってくれていた。

僕はというと夜にバイトをしだした。(パブ)

そこで色んな人間と合い、大人の世界を覚えだしていた。

ある日学校が急に午前中で終わり家に帰るとおやじが知らない女性と部屋にいた。

別に裸でいたわけではないが僕はなんか腹が立った。

その後その女性とは何回か顔を合わすことになる。

高校生の17歳の僕は反抗期。

おやじが許せなくなった。理由は亡き母のことを忘れたのか!という理由だ。

(先に書いておくが今は僕は大人だからおやじが知らない女性と付き合うのは理解できる。しかし当時はそんなことは全く考えられない歳だった。)

そして僕は家を出る決意をする。

パブの先輩のアパートで暮らすことにした。

姉は反対はしたけどそれも振り切った。

そこからおやじとはしばらく絶縁状態になった。

僕は20代を超えひとり暮らしもしたし同棲も何回もしていた。

おやじが定年退職をしたときから僕におやじは頻繁に連絡や顔を出すようになった。

しかし、小さい頃からおやじとの接し方がわからなかった僕はかなり辛かった。

おやじという愛情はあったとは思うがそれがどういうものかわからなかったんだ・・・。

おやじも寂しい男だったと思う。同時に子である僕も寂しい男だった・・・。

それでも1ヶ月に数回は実家に顔を出しおやじと会話はするようになった。

「さとし家は継がなくてもいいから。」とか色々会話をしたんだ。

内容は書けないがその時におやじに迷惑もかけたこともある・・・。

平成8年、おやじは他界した・・・。

僕は仕事で県外に行っていて見とれなかった・・・。

お通夜、葬儀も終わり落ち着いたころひとり実家にいる時、

何故かわからないけど涙が出て止まらなかった・・・。

おやじのことを思っているんだろうけどそれが何かわからないけど涙が自然とあふれ出た。

1日中篭って泣き崩れた・・・。

そして現在、

おやじに対して僕はなにも親孝行していなかったことを後悔している。

母にもそうだ。なにも喜ばせていない。

両親に対し僕は何もしてあげていないんだ・・・。

姉はこう言う。

「さとし、あんたお母さん、お父さんに対して後悔してるんやったら毎日心の中で拝みなさい!きっと伝わるから。見守ってくれているから・・・。」

姉の言葉もあったのか僕は数十年間欠かさず時間はマチマチだけど毎日数秒~数十分両親に問いかけている。

それは自然とでてくるんだ。

母の人生、おやじの人生。決して良いものではなかったろう。僕の気持ちをわかっていたのかおやじは再婚はしなかった・・・。

それが今はわかっていながら何も親孝行もできなかった自分が悔しくて悔しくて、そして今になって両親への感謝を心からしている。

心の中でしか思えない。伝えられない。本当に辛い・・・。

両親に本当に伝わっているのだろうか・・・。

両親は福井県福井市のお寺に眠っている。

暖かくなったらまたそっと帰って眠っているお寺に行ってこようと思う。

***************

「僕の履歴書」に関しましてはコメント欄は休ませていただきます。
ご了承ください。

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僕の履歴書。(元カノ)

人生って人それぞれ。僕はここまでの人生を振り返ると周りに迷惑も沢山かけてきたなぁ・・・。

最近は過去を振り返り反省もしている。歳を取るとそうなるんかな?

「僕の履歴書」と題してこれから間隔を空けて書いていこうと思う。たぶん記事は長くなるので宜しくです。

はじめはやはり僕の両親のことを書こうと思ったんだけどそれはまた今度ということで元彼女のことを書こうと思う。

元彼女といってもどの元カノ?って考えるんだけどやはり7年間という長い恋愛期間過ごした彼女のことが一番かなぁ。

元彼女のことをここから「彼女」と書くのでご了承してほしい。

今から十数年前、僕は若かった。←当たり前か。(笑)

その頃は仕事も充実しててその上夜はショットバーの仮マスターとして働いていた。

なぜ、仮マスターなのか?それは僕の親友がそのお店の経営者でマスターだったんだけど病気になり数ヶ月入院せねばならなくなったんで僕がその間代わりに店をすることになったんだ。

元々、親友とは学生時代パブにバイトしていたんでカクテルやシェーカー振ることは慣れたもんだった。

昼も夜も仕事で大変だったろうと思うかもしれないけど僕は全く苦にならなかった。(笑)
(睡眠時間は平均3時間半くらいだったけど)

それは沢山の仲間(お客さんも含めて)がいたから。

お客さん通し結ばして結婚したカップルは何組かいる。みんな今幸せなんだろうか・・・?

色んなお客さんの中で共同通信の人がいたんだ。

その人との出会いが僕の人生を大きく変えることになる。

詳しいことは省くが現在も僕が活動している「海外ボランティア団体」に所属するキッカケとなった人だ。

親友が退院して僕は夜ショットバーの仕事をしなくなってから海外ボランティア活動を本格的にする。

アフリカの国々を中心に色んなボランティアをした。

そのボランティア活動の中で知り合った女性が彼女だった。(仕事は証券会社勤務)

同じ福井県福井市に住んでたから話も意気投合。

それからというもの連休を利用して2人でアフリカの国々行ってボランティアしてきた。

そしていつの間にか付き合っていたんだ。

彼女の両親にも公認してもらいなんか結婚している状態と同じ気持ちでいた。

半同棲だった。毎日が楽しかったな・・・。

あっという間に3年、5年、6年が過ぎ・・・、結婚はもちろん考えてはいたんだけどお互い仕事とボランティアの両立だけで精一杯だったと思う。

突然、彼女があることを言い出す。

「さとし、なんで子供できんのやろね?不思議に思わない?」

「そ、そうやな・・・。でももし子供できん理由があるとすれば俺のせいかもしれん・・・。」

それは僕が24歳の時、「扁桃のう炎」という病気になって高い熱が続き命が一時期危ないところまでいった過去があった・・・。

高熱出すと男性は精子が死滅するときいたことがあったからそれがずっと脳裏にあったんだ。

彼女はまた突然、

「な~2人で病院行って検査してもらおうよ。」

「ま、マジで?でも俺が多分原因やで・・・。」

そして2人、別々に病院へ行って検査してもらった。

結果は・・・、

彼女が原因だった・・・。今思うと彼女も何か自分に気になることがあったのかもしれない。

病名はここでは書かないが難しい病名の子宮の病気。彼女が子供を産める確率は0,03%だった。

まさか、そんなことになるとは思ってもいなかった・・・。

「俺は子供は産めなくてもいなくても全く平気だから。心配すんなよ。」

と彼女に言っていた。彼女もありがとうと笑ってくれていたんだが・・・・。

それから3ヶ月くらい経ち、彼女に異変が起こる。

急に落ち込んだり、1点を見つめたり、頭痛、吐き気、めまいなど頻繁にするようになった。

一緒に、脳神経外科、耳鼻科、胃腸科など行って検査したんだけど異常無し・・・。

最後の病院で診察したら「心療内科」に行くようにと勧められる。

そして通院するようになるが症状は同じだった。

安定剤を飲んでいるのでボーッとさらにしている。

突然泣いたり怒ったり・・・、それは今まで僕が知っていた彼女とは別人になっていた。

僕が一生懸命心配してもそばにいても病気になっているのは彼女なんだ・・・。

辛かっただろうと思う・・・。

彼女は仕事も退社してしまった。

僕は小さい頃から母親が病気で苦しんでいるのを見てきて育った。

入退院繰り返してきた母親。小学生低学年の頃は母親の病室に泊まって学校に通っていた頃もあった。

病気になった彼女を見ていると母親のこととダブって見てしまう。

なんとか助けてあげたかったし絶対完治させて見せる!と決意していた。

心療内科の病気の本も買って読んだし、接し方の本も何冊も読んで勉強した。

そんなある日、彼女の両親に僕は呼ばれる。

「な~さとし君、君は長男だからさとし家を継いでいかなくてはならないだろ?娘がこんな状態になった以上娘と別れてくれんか?私たちも辛いんだけど。」

「い、いや、確かに長男ですが僕は子供はいなくても大丈夫です。〇〇〇の病気を完治する為にこれからも付き合っていくつもりです。」

その日は平行線に終わったんだけど、それから3日後、彼女から呼び出しがかかる。

「あのね。私たち別れようよ。お互いの為に・・・。」

「なに言うてるん?今大事な時に俺は別れるのはおかしいと思う。別れるんなら病気が完治した時や。」

「私も辛いの・・・。ごめんなさい。」

そういう同じ会話を何回したか覚えていないけどその後僕は別れることを了解したんだ。

決して納得したわけではなく、僕がそばにいることで彼女が辛くなるなら病気が完治できないと判断したから。

子供が大好きでアフリカの貧困に苦しむ子供たちのためにボランティア活動をしてきた彼女。

それが自分の子供が産めないということがわかって精神的に病気になってしまった・・・。

それが1番わかっている僕はいったい何を彼女にしてあげてきたんだろう・・・。

僕が長男というだけで更に彼女に辛い思いだけさせてきたんではないだろうか・・・。

僕の為に振ってくれたんだ!と自分に言い聞かせて前を向いて歩いていこうと思った。

彼女はそれから1年半後、バツイチ子持ちの男性と結婚した・・・。

今思うと別れて良かったんだと思う。

今でも彼女のことは好きというか頑張ってほしいと思っている。

さて、僕はというと・・・、

既にそれから何年も経っているのに・・・、

このブログに書いている通り・・・、

全く出会いがないっ!(笑)

正直書くけど、彼女と別れて1、2年は短い恋愛は数人とはした。

しかし続かなかった。

ぅおおおおおお!

なんでなんだろ?

心のどこかで閉ざしている何かがあるのは自分でも気がついている。

その何かがわからないんだ・・・。

現在大阪市に住んでいるけどこの大阪に住むようになったのもまた機会があれば書くつもりだ。

てことで簡単に(結構長い記事だったが・・・。)元彼女のことを書いたが現在も僕が独身なんは決して元彼女の責任でもなく今でも僕が元彼女のことを愛しているから恋愛できないわけでもない。

それは、

僕自身に責任があるっ!

っていうことなんだ・・・。

おわり・・・。

************

この「僕の履歴書」の記事に関してはコメント欄を休ませていただきます。ご了承ください。

色んな意見があると思いますが・・・、

すんまそん。m(_ _)m・・・。
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さとしにメッセージ

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プロフィール
2015-01-01-13-37-42


Name:さとし

■1度も結婚歴もなく気が付けば熟男になってしまいました。

■独身!バンザイ\(^o^)/

■現在大阪市在住。(マンションひとり暮し)

■海外ボランティア団体に所属しています。

(好きな言葉)

■「お主も悪よのぅ・・。
   ガ~ッハッハッハッハ!」(笑)
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